発想の転換で心を豊かに

《発想の転換H》

意思が弱く、集中できず迷いがいつもあり、気後れして遠慮深く、何事も思い切ってやり通せない。すぐ後悔し、クヨクヨして、不甲斐ない自分を責め、固い殻に閉じこもる・・・このような性格の人は案外世の中には多いのではないだろうか・・・ましてや昨今の時世である・・・・考えることや迷うことが多すぎる・・・そして・・自分のやりたいことや喜怒哀楽を表したくても表せない制約が、家庭・学校・社会の中であまりに多すぎる現代・・・・このような性格の人々はますます増えているような気がしてならない。
かつてフランスの思想家シャガールは「今日ほど感動が涙になりにくい時代はない」と言ったが、言いえて妙である。このような中で自分自身の考え方や行動を基に、少しでも発想の転換は出来ないものだろうか・・・

鎌倉時代の執権北条時宗は蒙古襲来で名をはせた人であるが、実は大変臆病な人であったといいます。蒙古の来襲という国家存亡の危機に見舞われ、どうしてよいか決断に迷い、思い余って円覚寺の開山、無学祖元禅師に「この迷いを治す方法」を訊ねたという。
すると禅師は「これを解脱することはなはだやすし。」といい、その迷いの原因を持って来いという。時宗は「一向にその迷いの原因がわからない」と述べると、禅師は「それはお前から来る。明日より時宗を棄却せよ」と言われた。そこで時宗は「いかに棄却せん」と訊ねると、禅師は「自分を棄て、自分を考えることすら断て」という。
時宗「私のように俗人で毎日執務している者には座禅をしているような暇がない」というと、禅師「行住座臥一切の事務、是れ最良の修禅道場なり」すなわち「平常心これ道なり」で、日常生活以外のところで座禅するだけが修行ではない・・と一括され、時宗はハッとめざめ、己れを捨てて自らを一心に鍛錬し、蒙古の来襲をびくともせずに断固として退けたのである。

俳人正岡子規は「禅の悟りとは、いつでもどこでも死ねる覚悟ができることだと思っていたが、よく考えてみるとそれは大変な誤りで、いかなる場合でも平気で生きることであることがわかった」と「病床六尺」に記している。どんなことに遭遇しても平気でいられる胆力を得ることは決してなまやさしいことではないが、自分を捨ててはじめてそうした道が開けるというのである。

私の場合でも・・・とてつもなく偉い立場の人にお逢いしたり、多くの人達の前でスピーチをしなければならない時などは、おじけづき上がってしまって、自分の考えていることの半分も述べられなかった経験があります。でもそんな時は「えいっ、どうにかなるだろう!どんなに恥をかいても殺されたり、死んだりすることはないだろう!」と自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をし立ち向かうことにしている。ある人などは、あがらない為のマジナイの札を手に握りしめてその場に臨む・・といったこともあるようです。

要は・・・気持ちの持ち方を、意識的に変えたり、道具を使ったり、鍛錬したり等々・・どんなことをしてでもよいから、自分の気に入った方法で心を集中させ、臆病風を吹き飛ばすのもひとつのやり方ではないだろうか。

『 自分を臆病だと思っている人へ 』