人生を幸せにする秘訣は、明るい考えと明るい言葉である。・・・彼はそう語り、笑いの大切さを強調する。両親の離婚や貧困などのつらい経験、厳しい下積み生活が逆に彼の笑いへの感性を磨き、人生への深い洞察力を培ったといえる。華やかなマスコミとは一線を画し、地方を回り聴衆を爆笑の渦に巻き込みつつ、生き方を問い続ける姿勢は、まさに・・・一隅を照らす落語人生といえる。

寂しがりやの少年時代・・・・

鹿児島に生まれ、3才の時に父親の仕事の都合で京都に移り住んだが、両親の離婚でまた母親と一緒に鹿児島へ・・しかし、家庭の都合でまた・・・大阪へ・・・このような複雑な家庭環境で育ったためか、幼少時代から根っからの寂しがりやでした。だから、人の笑顔を見るとなぜかホッとするところがあって、冗談を言っては人を笑わせてばかりいたのです。

厳しい修行に音を上げる
落語家になる夢を抱いて三遊亭 歌師匠のもとを訪れたのは18才の時でした。
動機はいたって簡単で、雑誌に師匠の紹介があり「しばらく弟子を採っていない」と書かれていたので、『これなら兄弟子のイジメがない!』と思ったからです。
本来ならば、師匠は私を入門させることに乗り気ではなかったらしいのですが、女将さん(和子夫人)の「この子はいい子だから採ろうよ!」の一言で決まったと言うのです。
厳しい師匠とは対照的に、女将さんはとても情に厚い方でした。お二人には子供がいなかったこともあり、女将さんからはまるで自分の子供のように可愛いがっていただきました。
このようななかでも修行中、あまりの厳しさに一度だけ「もう落語を止めよう!」と思ったことがあります。
その日師匠の自宅には行かず、目的もなく松本行きの電車に乗りました。ところが、松本に着いて何気なくテレビを見ていたら、師匠が出演していました。「帰ってこい!」と言われた気がして、翌日師匠宅へお詫びに行くと、「死んじゃったかと思って、眠れなかった」と泣きじゃくる女将さんの顔を見て、このとき初志を貫徹することを誓ったんです。その優しかった女将さんも病魔には勝てず、3年後他界しました。

賢いカメになって歩き続ける
昭和62年真打ちになりました。林家こぶ平さんと一緒の昇進でした。マスコミが一斉に押し寄せて来たのですが、フラッシュを浴びたのはこぶ平さんだけでした。私は、悔しくて涙を抑えられなくなり、外に飛び出し電車に乗りました。そこに偶然にも故養田実(ジュポン化粧品本舗)社長がいたのです。私を見て・・「うさぎとカメの童話があるだろう。うさぎはどうしてカメに負けたのか」というんです。「カメにとっては相手はうさぎでもライオンでもよかったんだよ!なぜならカメにとっては旗の立っている頂上、つまり人生の目標だけを見つめて歩くことが重要だったんだ。
一方のうさぎは絶えずカメのことばかり気にして、大切な人生の目標を一度も考えることがなかった。君の人生の目標はこぶ平君ではないはずだ!」と。さらに『どんな急な坂道があっても止まってはダメです。苦しい時には、ああ何と有り難いことなんだ。この坂道は俺を鍛えてくれているではないか、と感謝しなさい。有り難いと言うのは、難が有るから有り難いだよ』と。
この一言で迷いが吹っ切れました。自分の人生の目標に向かって黙々と歩き続けようと・・・

人々に元気を与える笑売人として
笑いと言葉は神様が人間だけにプレゼントされた素晴らしい宝物なんです。
常に自分自身に勇気と感動の湧く言葉をどんどん植え付けながら、明るく積極的に生き、自分を高める努力をしている人達には多くの素晴らしい出会いが待っている。
一人から発せられた元気が相手にも伝わり、いつの間にかそれが大きな輪となって広がっていく。こういう一隅を照らす生き方が「笑売人」としての私の道であり、目標でもあるのです。

王陽明の心は現代も生きている!

一隅を照らす
〜笑いと涙で人々の心を潤したい〜
落語家 三遊亭歌之介