陸奥宗光の父にあたる伊達自得翁が、京都相国寺の越渓禅師に面会を求め、「ご承知かと思いますが、私は儒学を修めたもので「道」の何ものかくらいは一通り心得ておりますが、禅の道はよくわからないので今日は教えを乞いにおじゃましました。」と言うと、この禅師はやにわに平手で伊達氏の横面をぴしゃりとたたいたという。翁は驚いて部屋の外に飛び出したが、無念のあまり、携えていた刀のツバに手をかけ、今にも斬ろうとする剣幕。これを見た一人の雲水が「何事ですか?」と訊ねると、「この和尚の無礼は許せぬ!斬って捨てるのだ」とのこと。
雲水は「まず気を落ち着けこちらでお茶でもどうぞ」と茶の間のほうへ案内した。
番茶を差し出し、たまたま翁が飲もうと口をつけたとたんに、この雲水が何を思ったか茶碗を持つ翁の腕をぽん!と打った。茶はこぼれて畳の上は茶の海となった。この時雲水は「先ほどあなたは道の何ものかは一通り心得ておられるとのことですが、それは何か!」と訊ねた。
翁はとっさに四書五経のいずれかの句を言おうとあせったが、出てこない。その時雲水は「はなはだ失礼ですが、私共の道をお目にかけましょう。」と言い、手近にあった雑巾を取ってこぼれた番茶をふきとり、「これが私共の道です。」と答えた。翁はこれを見て思わず「なるほど」とうなずき、「かつて道は近きにありと聞いていたが、これを遠きに求めていた」と大いに悟り、改めて越渓禅師の部屋に入って教えを受け、その弟子になったといいます。
日常生活においても同じことが言えるのではないでしょうか。あまり難しく考えなくても自分を充実させるための事柄は一杯あるはずです。
たとえば仕事の面ですが・・・・「歳月人を待たず」で、今ここで自分のやるべきことをやらないで、いつか後でやろうと考えていると、いつになってもやれないことになってしまう。だいたい「仕事を後でやろう」などと考えていること自体、あまり気乗りしていない証拠で、いったん引き受けた以上は迅速確実にそれをなしとげ、できないことは引き受けないくらいの覚悟が必要でしょう。
そうした現在に最善をつくすことの積み重ねが実績となって残されていくのであって、それをただ待ち望んでいても、絵にかいた餅のように、いつになってもそれは自分のものになるはずがありません。
辛い事があっても「このことは自分を強くしてくれてるんだ!」と考えるようにしましょう。
これって・・・・・「仕事道」「生活道」というのかもしれません。